昨夜(3月30日)は久しぶりにシコタマ飲んだ。会社の山の会の飲み会があったのだ。震災以来外で飲む機会が減った人が多く、その反動で酒の量が増えたようだ。
親しい仲間と酒を汲み、また山に登ることができる喜びをかみしめる。
今回の震災は直接被害を受けなかった我々にも、幾つかのことを教えてくる。一つは自然の力の底知れぬ強さだ。古来日本人は自然と闘うという考え方ではなく、自然との調和を求めるという考え方を取ってきた。しかし科学技術や土木技術の発展とともに、自然を征服しようという西欧的考え方が強くなってきた。だが津波の猛威を見るとやはり世界に冠たる日本の土木技術を持ってしても、津波の猛威には勝てなかった・・・・ということが分かる。今後もっと高い防波堤を作るかあるいは自然との調和を求めるかは考えどころだろう。
さてもう一つ改めて思い起こすことは、「人生は一寸先も分からない」という当たり前の原理だ。科学技術や医療の進歩で人の寿命は伸び、色々なことが予見できると我々は考え勝ちだ。だがそれは確率の問題に過ぎず、やはり「一寸先は分からない」というのが正しいのだろう。
だが先が分からないことは悪いことではない。「先が分からない」ということを自覚することから、今を精一杯生きるという緊張感が生まれる。
晩年の芭蕉に弟子が辞世の句を尋ねたときの芭蕉の答が「きのうの発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、我が生涯言い捨てし句々、一句として辞世ならざるものなし」であった。つまり一句一句に全力を注ぎ込むという気概である(もっとも芭蕉には「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句があるが・・・)
無論我々凡人はそのような集中力・緊張感の連続には耐えることができない。緩んで酒を飲み、ワイワイ騒ぐのである。
だけど時に「一寸先は分からない」ということを思い出し、今を精一杯生きるということを自問してみたいと考えている。