今月(8月)29日の相続学会セミナーのテーマの一つが「仏教的視点から見る相続の姿」である。お話頂くのは浄土真宗大谷派の延澤さんという方だが、その方から事務局に届いたメールには「ご承知のとおり元々相続とは仏教用語であり」と書いてあった。
へぇー、そうなの?まったく考えたことがなかった、というところである。手元の仏教語辞典(「日常佛教語」中公新書)を見ると次のように書いてあった。
相続 梵語サンタティ「連続」の訳。因果が連続して絶えることのないこと。弘く跡目を継ぐことを相続というのは、仏教用語としての「相続」の転用。
延澤さんがどのようなお話をされるかは当日の楽しみとして、仏教は刹那(短い時間)の間に、生命の消滅があり、生命の消滅の連続が大きな生命を作ると考えている。この考え方は現代の生物学の考え方と一致する。刹那の間に消滅するのは個体である。だが個体は消滅しても遺伝子(DNAよりも広い概念)は綿々とつながっていく。イギリスの偉大な生物学者リチャード・ドーキンスは「個体は遺伝子の乗り物である」と説明した。
一人の人の人生という刹那を次の世界にバトンタッチするのが相続、とすれば分かり易い。
ところが現在法律用語として使われる「相続」は、相続人に帰属した権利義務(一身専属的なものを除く)の継承を指す。もっと分かり易くいうと、亡くなった人が持っていた金銭と不動産を相続人がどう分けるかということが関心の中心になっている。その結果分け前を巡って「相続争い」がしばしば起きるのである。
仏教がいう本来の相続の意味を理解したからといって、直ぐに相続争いが減るかどうかは分からない。だが財産の相続は本来の相続の一部分に過ぎないということや、自分の生命は大きな生命の樹の一部であるということを考えると僅かな財産を巡って争うことの愚かさを感じる人が増えるかもしれない。
キリストは「金持ちが天国に行くことはラクダが針の穴を通るより難しい」と述べた。キリストの本意とは違うかもしれないが、財産は争いの種になり、妬心や憎しみの心を生む。そのような心をもつ人に天国は遠いとも考えられる。