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「終戦のエンペラー」~史実へのラブロマンスの夾雑

2013年08月25日 | 映画

映画「終戦のエンペラー」が上映されて1ヶ月ほどになる先日ぶらりと出かけて観てきた。

ストーリーの骨子は、マッカーサー元帥の幕僚として来日したボナ・フェラーズ准将は「天皇の戦争責任の有無」について10日でまとめるよう元帥から命じられる。フェラーズは近衛文麿など昭和天皇の側近と面談し、開戦に関する天皇の関与を調べるが要領を得ない日本の要人の回答に苛立ち、一時は有責論に傾く。だが最終的には木戸内大臣の「戦争を集結させたのは天皇の力だった」という陳述を重視し、天皇を有罪にすると日本は破綻し、100万人の進駐軍の派兵が必要というレポートをまとめた。天皇については戦犯とみなせる確実な証拠がなかったと述べた。

このレポートは天皇制の温存により、日本の再建を目論むマッカーサー元帥の意にかない、マッカーサーと天皇の会談につながった。

なおメインテーマの伴奏のように、フェラーズが日本人の恋人「あや」を探す場面や二人の思い出のシーンが流れる。

後で調べたところでは、フェラーズには渡辺ゆり(後に結婚して一色ゆり)という米国留学生の友人がいて、フェラーズは戦前に来日した時、一色ゆりやその先生の河井道と合っている。映画中のヒロイン「島田あや」はこのような事実を脚色したものだろうが、何故真実を映画にしなかったのだろうか?

昔の恋人の国を救うために天皇に寛大な処置をとった、というラブストーリーが観客受けするという判断だったのだろうか?あるいはこの映画はフィクションで総てが事実であるというメッセージを残したかったのだろうか?

映画製作者の意図は分からない。しかし私は戦争責任の調査にあたるフェラーズが河井道や一色ゆりと会い、彼女らの意見に強い衝撃を受けて天皇制存続に動いた、という史実の方が迫力があったのではないだろうか?と考えている。

当時米国の世論の7割は天皇の処刑を望んでいたが、マッカーサー元帥はフェラーズのレポートに力を得て、天皇の戦争責任を問わないことにした。それが日本再建の最善策と判断したのだ。

☆   ☆   ☆

アメリカ人には「原理原則を重視する」面と「現実的に上手く行けば原理原則は無視しても良い」というプラグマティックな面があると私は考えている。後者の例としては「不法に移住した移民でも長期に米国に暮らしている人には永住権を与える」法律とか司法取引などが思いつく。

天皇の戦争責任問題についても「戦争責任があるかないか」という判断を避けて、天皇の処刑や天皇制の廃止が、日本の大混乱や共産化につながるというプラグマティックな判断基準で判断したのだ。

正義は英語ではJusticeというが、Justiceには「正義」の他に「当然の報い」という意味がある。「当然の報い」が戦勝者によってなされる時、それが「過度の懲罰」や「復讐」の可能性を内包すると私は考える。人は神様ほど公平無私にはできていない。

世界には色々な宗教・文化・文明がありそれぞれに原理原則がある。時に原理原則に固執すると大きな惨事を招くことがある。プラグマティクな判断は時にきわめて重要であるということをもっと打ち出して欲しかったが、映画ではラブロマンスが夾雑していたと私は感じた。

コメント
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