土曜日会社のコンペで茨城県稲敷市のアスレチックゴルフ倶楽部に行った。スコアは100を少し切る程度の平凡なものだったが3位に入賞し、すこしばかりの商品券を賞品に頂いて帰った。これはいつもの様にワイフにあげた。小さなプレゼントでもしておくとゴルフで朝早く起こしても文句をいうことが少なくなる。
ところで私にとってゴルフのプライオリティは高くない。つまり山やスキーあるいは写真に比べると積極的にゴルフに行くことは随分減った。しかし会社のコンペなどの付き合いは欠かさない様にしている。
私は個人主義者であり、ゴルフが好きでない人にまでゴルフを押し付ける様なことは嫌いだ。しかし企業の部長クラスを勤めながら「ゴルフはやりません」と言う類の人間には軽い反発を覚えるのも事実だ。無論特別の理由があれば別だが。
論語の八佾第三に「子曰く、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲して升り、下りて飲ましむ。其の争や君子なり。」という言葉がある。意味は人格の高い人間は人と争うことはしない。もし争う場合があればこれは弓を射る礼を行う時である。勝ったた者が罰杯を取って負けた者に飲ませる。その態度はゆったりとしておごるところがなくあくまで君子的である。
人はその本質として大なり小なり競争心を持っている。競争心があるから人は向上し社会が発展する。しかし過度の競争心は無用の争いを生み社会の混乱を招く。孔子の時代の「射」は猛々しい競争心を秘めた男達の心を傾けさせるゲームであった。
それと同様に現代のゴルフもまた企業社会を生きる男達の猛々しい競争心を受け止めるものなのかもしれない。ゴルフは男達の過度の競争心を吸収する。もしそれがなければ男達は会社の内外でもっとつまらない争いを繰り広げていたかもしれない。
いかなる社会にも「礼」や「社交の場」というものはある。それが欧米ではナイトパーティであり、昔の日本ではお茶会であったりする。ゴルフも又良し悪しは別として社交の場という要素もある。従ってそれを全く避ける様な生き方は企業人として少し意固地過ぎるというのが私の考えなのだ。
論語によれば射では負けた人が罰杯を飲んだが、現代のゴルフコンペでは買っても負けても良くお酒を飲む。コンペは誠に競争心のカタルシスである。