先日小旅行の読みものに、思い火坂 雅志の「墨染の鎧」(文春文庫 上下2巻)を買った。この本は毛利家の使僧から秀吉政権の中枢の一角まで登り、やがて関ヶ原の戦いを演出し、そしてほろんだ安国寺恵瓊の生涯を活写した歴史大作である。
なぜ今安国寺恵瓊か?と思うと私の中の二つの線が交差したと思う。一つはこのところ火坂さんの本に惹かれていることで、もう一つは来月ドウダンつつじで有名な但馬の安国寺を訪問する予定なので、「安国寺」という伏線があったのだ。
安国寺というのは、足利尊氏が夢想国師の勧めで各国に建てたお寺で、いわば国分寺の尊氏版のようなものだ。安芸武田家の末裔と言われている安国寺恵瓊の安国寺は安芸の安国寺で、来月行く予定の但馬の安国寺とは直接関係はない。
さてこの本を読むまで安国寺恵瓊については詳しく知らなかった。知っていたことは織田信長が絶好調だった天正元年の書状に「信長の代、五年三年はもたるべく候」と書いていたこと位だ。
恵瓊はこの手紙の中で「来年あたり信長は公家になるかもしれないが、その後高ころびに転ぶだろう」と信長の没落を予想し、さらに秀吉の台頭を予想する。
素晴らしい慧眼だと思う。その慧眼は禅僧としての修行と外交僧としての情報量から来ている。
戦国時代には多くの僧侶が、大名の軍事・政治顧問として活躍している。戦国大名は禅僧を中心とする僧侶の見識と彼らのネットワークが共有する各地の軍事・政治情報を重宝していたのだ。
有名なところでは今川義元と太原雪斎、武田信玄と快川 紹喜、織田信長と沢彦宗恩などだ。秀吉と安国寺恵瓊も同じ関係にある。秀吉の後を襲った家康は、天海と金地院崇伝を顧問とした。
これらの僧侶の中には黒衣の宰相として実権をふるった人物もいるが、城持ち大名にまでなったのは恵瓊だけだ。そして戦争に負けて処刑されたのも恵瓊だけである。なお快川和尚は武田家滅亡の折、逃げてきた兵士を恵林寺にかくまい、引き渡しを拒否すると信長軍に焼き殺されている。「安禅かならずしも山水をもとめず 心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残して。快川和尚の場合は覚悟と意地の死であり、自死である。
ところで信長の滅亡と秀吉の台頭を予測することができた恵瓊だが、石田三成の敗北と家康の台頭、そして自分の身の滅亡は予測することができなかったのは何故だろうか?
それは「墨染の鎧」を読みながら、読者諸氏(みなさん)でお考えいただきたいテーマだが、私は恵瓊の欲と慢心が将来を読む知恵を曇らせたと考えている。慢心は「自分が毛利輝元を中心とする毛利勢を動かすことができる」という毛利家内における自己の勢力に対する過信を生んだ。
恵瓊の話は四百年以上も前の話であるが、若い頃優れた判断力を持っていた人が権力の座に就くと組織や自分の将来を見誤るということは今日もしばしば目にするところである。
仏教の最も根源的な教えは「煩悩と無知の克服」である。禅僧として最高のポジションである南禅寺の住持まで昇りつめたこともある恵瓊だが、なお煩悩と慢心が引き起こす無知の罠から抜けることができなかったようだ。
最高レベルの修行を積んだ禅僧でも煩悩を克服できず、身を誤ることがあるとすれば、多くのの凡人が欲や恐怖心から道を誤ることはむべなるかな、ということだろうか。