金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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自己を習うというは自己を忘るるなり

2019年10月27日 | ライフプランニングファイル

毎月届くJR東日本の「大人の休日倶楽部」。その10月号に「北陸で禅をかじる」という特集があった。その最初の書き出しが「自己を習うというは自己を忘るるなり」-道元「正法眼蔵」だ。そして取材者は修験道場の空気にふれている内に聞きかじりの禅語が不意に心に落ちるような旅になるかもしれないと続けている。

特集が紹介している福井の永平寺や富山高岡市の瑞龍寺を訪問する予定はないが、ひさしぶりに正法眼蔵を開いて道元禅師のお言葉を聞いてみることにした。

禅師は「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べておられる(正法眼蔵・現成公案)。

私はこの一文が曹洞宗の本質をついた言葉であり、お釈迦様が説いたオリジナル仏教の教えに近いと感じている。

正法眼蔵は難しい言葉が連なり、理解に苦しむことが多いが、この部分はほぼ意味がわかる。自己流の解釈を加えると次のようなことだろう。

「仏教を修め悟るとは自分を修め悟るということです。自分を修め悟るということは、いったん既成観念に凝り固まった自分を忘れるということです。固定観念を離れた時、すべてのことが教えてくれるところが分かってきます。だからすべてのことに教えられるとは自己も他己も身心脱落(自我意識を捨てる)ことなのです」

もっと現代風に解釈すると「自己学習の目的は既成概念や価値観を取っ払い、社会現象や自然現象に謙虚に向き合うことです。そうすると社会現象や自然現象の方からあなたに何かを語りかけてくるでしょう。そうするためには自我意識を捨てることが必要なのです」ということになるだろう。

自我意識を捨てると上から目線でなく相手をありのままに見ることができるようになる。それが「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」の意味するところではないか?と私は解釈している。

 

 

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