私は市の図書館を積極的に利用する方だと思う。積極的に利用するという意味は、図書館の書架に並んでいる本を眺めて借り出すのではなく、分野や著者を選んでネットで注文して読みたい本を読んでいるという意味だ。効率的な図書館の使い方だと思うが大きな欠点がある。それは「読みたい時に必ずしも読みたい本が読めず、旬を過ぎてからデリバリーされることがある」というところだ。
先日も夏に計画してたお伊勢参りに合わせて頼んでいた本が2ヶ月遅れでデリバリーされた。
「伊勢神宮」(太陽の地図帖 平凡社)である。私にとっては季節外れの本だが、パラパラとめくると細川護煕氏が「神宮の森 人、自然、そして神」という短いエッセーを寄稿していた。
気に入ったところを少し引用しよう。
「かって日本人は森に神が宿ることを知っていた。『杜』ろいう字がそれを表している。『杜』は、森であると同時に神の住まい=神社のことである。『御成敗式目』の第一条に『神は人の敬に依りて威を増し、人は神の徳に依りて運を添う』とあるように、神と人とは持ちつ持たれつの間柄と言っていい」「(伊勢)神宮の森厳さは、実は、参拝者や神職たちの神に対する真摯な祈りと感謝の気持ちが反映したものだろう」
この一文を読みながら昨日参詣した諏訪大社のことを思い出していた。諏訪大社の裏にも伊勢神宮に優るとも劣らぬ大きな森とさらにその奥に南アルプスあるいは霧ヶ峰につながる大きな山塊がある。その大きな山塊から流れだす清流は森を養い、里に流れ出て人を潤し田畑を灌漑する。
里に流れでた川の水はやがて海に至り、雲となり山に戻り雨となって再び森を潤す。
神が宿る森とはこの大きな水の循環の中継点であったのだ。
中継点である森の中に立つ神殿を見ると豊富な水分のおかげで老朽化が早いことが偲ばれる。(写真は諏訪大社下社・春宮)
だから人々は遷宮や御柱の定期的な交換を行ってきた。それは生命の再生の証でもある。個体に宿る一つ一つの生命(いのち)は限られた期間で消滅するが、一つ一つの生命を貫く「遺伝子」はこの世に生命(せいめい)がある限り絶えることはない。神社は絶えることのない生命(せいめい)の証でもあるのだ、と改めて感じた。
季節外れに届いた本からも意外に学ぶことはあると感じた次第。