先日10月26日号週刊東洋経済を買った。「いま知りたい終活」という終活特集である。雑誌には「ネタに困ると京都特集を組む」という秘策があると聞くが、昨今のビジネス雑誌には「ネタに詰まると相続や葬儀など終活関連を取り上げる」という裏ワザがあるようだ。実際今週は他の雑誌も相続特集を組んでいる。相続学会の専務理事という立場から参考までに一つ読んでみた次第。
「終活」という言葉がいつ頃から流行りだしたのかは知らないが、昨年12月にはユーキャン新語・流行語大賞でトップ10に選ばれている。「終活」は「就活」や「婚活」と同じ流れの造語であるが、私にはこのような造語の裏には、ブームを作り出して一儲けしようと考えている人の陰がチラチラ見えてある種の怪しさが感じられる。
「終活」という言葉を英語に訳すとPreparation for deathとなるだろうが、英語の「死の準備」という言葉に較べて「終活」という言葉はいかにも軽くて尊厳を欠いている。
東洋経済の記事をパラパラめくりながらその理由を考えてみると、「終活」には精神面の問題がほとんど触れられていないことに気がついた。
たとえば「あらためて知りたいお葬式」の項目をみると「葬儀費用はいくらかかるのか」「葬儀社選びで失敗しない方法は」「住職にお布施をいくら渡せばいいのか」など金と儀式と世間体の話ばかりなのである。
恐らくPreparation for deathで「精神面の死の準備」が全く語られず、「金としきたりと世間体」が話題の中心になっている国は日本ぐらいのものではないだろうか?
キリスト教文化圏の人々はPreparation for deathと聞くと恐らく「牧師を呼んで最後の告白をする」ということを思い出し、ヒンズー教文化圏の人は住み慣れた家を出て火葬場のある寺(例えばネパールではパシュパティナート寺院)に移り、静かに最後の時を待つことを想起するのではないだろうか?
Preparation for deathは総ての文化圏でそれぞれ固有の伝統的な手順があるのだが、日本の場合は都市化と急速な核家族化さらにはその核家族の崩壊により、伝統的手順が霧消しているのが現状なのだ(もともと日本人の宗教心のあり方が他の文化圏のそれとは相当異なるという面もある)。
バブルの頃は派手な社葬が流行り、個人葬でも裕福な人は高いお布施を払って立派な戒名を貰うことが流行った。今ではその反動で小規模な家族葬が増えつつあると聞く。
何故こういうことが起きるのか?というと葬儀を出す方もそれを執り行う葬儀社や寺院も葬儀を経済的なイベントととらえているからである。
例えば仏典のどこをひっくり返しても立派な戒名を貰うと極楽に行けるとは書いていない。立派な戒名で儲けるのはお寺である。だからお寺の旗振りで戒名はインフレ化した。
つまり儲けを狙う人が常にブームの旗を振るのである。今の「終活」ブームの旗を振っているのは誰か?
葬儀屋、お寺、不動産会社、本業では食べていけない司法書士、行政書士、税理士などのサムライ業、出版社などなどである。
それらの人が総て怪しいとは言わないが、私は「踊る終活ブーム」には怪しさを感じている。そもそも何時の時代も総ての人は死ぬ。死の迎え方にブームなどある訳がない。Preparation for deathの中心に「人は皆死ぬ。だから恐れることは何もない。あの世に持っていけるものなど何もない。いかなる厚葬も魂の救済には無縁である。」というごく当たり前の概念を据え付けないようなコンサルティングなど総て怪しい私は考えている。