「ブームとしての終活は怪しい」ということは少し前にブログで書いた。怪しいという意味はブームにはそれで金儲けをしようと考えている人がいるから怪しいと書いた。
「生者必滅会者定離」、Man is motalである。そこにブームなどはない。またもし良い死に方というものがあるとすれば、それは良い生き方の帰結である。納得の行かない生き方の先に安心(あんじん)の死はない。
つまり必要なのは「終活」ではなく、その日その日を納得して充実して生きる「生活」が必要なのである。
とはいうものの「残された家族の負担をできるだけ軽くする」ような準備は必要だ。その準備を「終活」と呼ぶのであれば(好きな言葉ではないが)、その「終活」まで否定する否定するつもりはないし、インターネットの普及や医療技術の進展が作り出した複雑な社会では以前より「終活」の重要性が増していることも十分認識している。
だが原点に帰って考えるとやはり「憾みを残さない生き方」をして「良い思い出を周りの人に残す」というのが「生活」の基本なのだろう。
「憾み」は「物足りない感じ」であり、反感を意味する「恨み」とは違う。最近読んだ磯田道史さんの「歴史の愉しみ方」の中に江戸末期の蘭方医・大槻俊斎の話がでてくる。俊斎は天然痘から人々を救うために種痘所を建てた。種痘所はやがてわが国初の官立西洋医学校になり、俊斎は初代頭取となり、医師の頂点を極めた。磯田さんは「この天才医は死に臨み「われ死すとも憾みなし」といったという。いい言葉だ。しかし天才に生まれなくても、それはできる気がする」と書いている。
できるか?と言われると私には自信はない。なぜなら私ははっきりとしたライフワークをもっていないからである。宿題がない、あるいは宿題を認識していないので、達成感が認識できない。だからこのまま行くと憾みが残る可能性があるのだ、と反省はしているのだが。
一方「思い出を残す」方が簡単なのではないか?と示唆する言葉がある。ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「死をイメージする闘病記を」(週刊東洋経済10月26日)の中で次のように書いている。「(柳田さんが19歳の時に亡くなった)父からもらった最高の財産は”静かな死”だと思っています。・・・僕のケースで考えてみると、父親は生きているわけですよ。・・不思議なことに、死ぬと精神性が残るのです。何かあれば、親の生き方や言葉がよみがえってきて、人生の道しるべになってくれる。・・・・本当に納得できる最後の日々をおくらなければならないし、最後をよりよく生きることが”死後の未来”につながるという希望さえ湧いてきます。」と書いている。
二つの話を合わせると、納得できる最後の日を送れば本人には憾みは残らず、周りの人には良い思い出がいつまでも残る。つまり人は死んでも残された人々の精神の中では生き続ける・・・・ということになるのだろう。