今朝の読売新聞に「中国で儒教や三国志などの古典を学ぶことが盛んになっている」という記事が出ていた。一国の経済状態が向上し、対外的なプレゼンスが高まると伝統文化に目を向けるようになる。このこと自体は悪いことではない。特に中国では文化大革命とその後の開放政策により、価値体系が混乱しているので社会規範を再構築する上で古典へ回帰することは好ましいと考えられる。
多くの国民が共有する宗教や古典というものは、その国の政治や経済の基盤を形成する。基盤がしっかりしている国は安定し長期的に発展する。例えばアメリカは、市場型資本主義の権化のような国で拝金主義的である。しかし一方キリスト教が深く根を下ろした国で慈善や奉仕の精神が旺盛だ。拝金主義と慈善、この微妙なバランスがアメリカの繁栄の基盤になっている。
さて中国はどうか?今中国では「ニセモノ作り」「公害の垂れ流し」「管理の汚職・贈収賄」「地方官吏による農民の収奪」などといったことが問題になっている。「今」と書いたが実はこれらは中国では有史以来大なり小なり問題になってきたことだろう。むしろ貪官汚吏が跋扈している時代の方が多く、清廉な官吏が支配した時代の方が少なかったかもしれない。
社会規範を考える時、「法を重視する」か「人情や人のつながりを重視する」かということで大きく社会を分けることができる。ソクラテスの「悪法も法なり」という言葉が代表するように、西洋社会は「法や契約を尊重する」ことが社会規範になっている。一方論語に代表される中国の社会規範は法より人情や人のつながりを重視するものだ。
論語の中に「葉公という人が『わしの方にこのような正直者がいる。父が羊を盗んだことを子供が証明した』といった。これに対し孔子は「私のところの正直者は少し違います。子供は父の罪を隠し、父は子供の罪を隠します。正直ということはその人情の中にあります」という一節がある。
この一節をもって、論語がコンプライアンス上問題の書であると批判する積もりはない。むしろ論語は私の愛読書である。しかしいかなる古典といえども今日無条件・無批判に受け入れる訳には行くまい。
私は孔子が「子は父のために隠す」という考え方が、悪い方に発展すると「官吏に金を払って目こぼしをしてもらう」とか「親戚や知人を優遇して特別な許可を与える」という弊風につながると考えている。今日中国で論語を教えるならば、コンプライアンスの問題も合わせて教えるべきであろう。
論語に批判的なことを述べたが、全体としては論語はすばらしい書物である。私が論語の中で好きな言葉に「曽子曰く、もって六尺の孤を託すにたる、もって百里の命を寄すべく、大節に望んで奪うべからず。君子仁か君子仁なり」というものである。例えこの中の一つでも生涯かけて実践するのであれば私は立派な人間であると思う。
特に中国の官吏には「百里の命を寄せる」というところを学んで欲しいものである。百里がどれ位の大きさかという考証は避けるが、それ程大きくはない地方行政単位と考えてよいだろう。その地域の人民が命を寄せる程信頼される行政官なれば君子という訳だ。
正しく教える限り古典を教えるメリットの方がディメリットよりはるかに大きいといえる。