金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

野村がアメリカで勝てない理由

2007年10月17日 | 金融

村ホールディングスは15日に「1-9月期に1,456億ドルの損失を計上する」「米国の住宅ローンビジネスから完全撤退する」という発表を行った。このニュースには幾つかの点で関心があった。一つは野村ホールディングの株を少し持っているからだ。野村は配当利回りが2%を超えているので、当面売る予定はないが気になるところだ。野村の株は前日比80円下げて2,000円で寄り付いた。今回の損失はそれ程サプライズでないということだろう。

次に日経新聞が報じていたが、サブプライムを担当する「グローバル・マーケッツ部門」の責任者揚村CEOが更迭されたことだ。この人とは一昔前に外債取引で仕事をしたことがある。その後は付き合いはないがノルマの厳しい野村證券で良くがんばっていると思っていただけに多少寂しい気がする。新聞によると野村證券の常務執行役にはとどまるそうだから引き続きご活躍を期待したい。

だが最大の関心事は「どうして野村證券は米国で勝てないのか?」ということだ。野村ホールディングスはサブプライムローンに関して日系金融機関の中では桁違いに大きな損失を出したが、このことは野村が深く米国の住宅ローン市場にコミットしていたことを示す。野村證券は米国で色々な業務に挑戦し、時には大きな損失を出して撤退してきた。大きなところでは19993月期に米国の商業用不動産ローン担保証券ビジネスで46百億円を超える損失を出して撤退した。その他米国国債のマーケット・メイク、資産担保証券業務、シカゴやロス・アンジェルスでの先物関連取引などからも撤退している。

野村は今後ともデリバティブ業務や株式の売買業務は行うということだ。だがポイントは次の点だ。それは野村ホールディングスの古賀社長が「我々の米国における顧客ベースはきわめて弱いので、我々が米国で追い求めることができる業務には限りがある」と告白していることだ。

この顧客ベース、業界ではCustomer baseという英語の方がしっくりくるだろうが、兎に角顧客基盤を作ることができないということが、米国における日本の金融機関の限界なのである。簡単にいうと企業取引の幹事銀行・幹事証券になれないのである。私の経験からいうと不動産ローンなどの物ベースのファイナンスでは日本の金融機関もプライシングさえ良いと幹事を獲得することができる。しかし企業取引で幹事を獲得することはほぼ不可能だった(最近の事情は知らないが)。

何故物ベースのファイナンスで幹事が取れて、企業ベースの取引では幹事が取れないかというと物ベースのファイナンスというのは「奴隷の取引」で「企業与信は市民の取引」だからだと私は考えている。これはローマ時代に遡る話だが奴隷でも担保を提供するとお金を借りることができた。そして債務不履行があっても担保を処分されるだけで大したペナルティはなかった。一方無担保でお金を借りることができるのは一流の市民のみであった。何故なら彼らは命懸けで債務の履行を守ったからである。

こう考えると辛い話だが、米国人は日本の金融機関とは奴隷の取引はしても貴族の取引はしないと考えているということが見えてくる。物ベースのファイナンスはバブルに掴まり安くリスクが高いことは説明を要さないだろう。又企業取引つまりカスタマーベースを絶対に日本人には渡さないという米国の銀行・証券会社の極めて強い意思が見える。そこにはあたかも企業と金融機関の無言の談合があるかのようだ。談合という言葉が不穏当であれば、文化と商慣習の共有といっても良いだろう。

これに比べると日本に来ている米系証券会社や銀行は日本の大企業や公的資金に実に深く食い込んできる。金融技術の違いとか資本市場の大きさや深さの差だけは説明できない何かがありそうだ。日本の金融機関に必要なことは「歯を食いしばってもカスタマーベースを失わない」というコミットメントなのである。しかし挑戦しないものが挑戦者を批判する権利はない。米国市場の壁は厚くとも世界は広い。ビジネスチャンスはあるはずだ。私は野村が引き続き世界へ向けて挑戦することを期待している。

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米国トップは貰い過ぎ

2007年10月15日 | うんちく・小ネタ

人の給料を気にする奴ほどつまらない人間はいない。会社の先輩で現役を引退して気楽な勤めになっても時々「あいつは俺よりも2万円多く貰っている」などという人がいる。愚痴ったところで自分の給料が増える訳でもないのだが、他人の給料が気になるところがサラリーマンの悲しい性なのだろうか?

と偉そうなことを言ったが、他人の給料というものは欧米でもマスコミの飯の種になる様だ。FTに次のような記事が出ていた。

  • 大部分の企業の幹部は社長(CEO)は報酬を貰い過ぎで、報酬に値する価値を会社に提供していないと信じているという研究がthe National Association of Corporate Directorsによりまもなく発表されるだろう。7月と8月の調査によると6人の内4人の企業トップが成果に対して報酬が高すぎると述べている。70人近い企業トップの中でわずかに2.2%の人が報酬は低すぎるといい、三分の一の人は「適正レベル」と述べている。また社外重役の8割以上は企業トップは貰い過ぎだと言っている。これは過大な役員報酬に対する批判を励ますだろう。特に高い報酬を貰いながら業績が不振な会社の社長に対してはアクティビストやヘッジファンドが株主総会で批判を強めるだろう。
  • 先週発表された統計では米国のトップ1%の富裕層が全米の所得の21.2%を得ているが、これは戦後の新記録だ。米国では貧富の差が過去60年以上で最も拡大しているので、この問題は特にデリケートだ。

フォーブス誌によると全米500社のCEOの報酬は2003年の33億ドルから51億ドルに54%アップしている。

  • NACDCOO、グリーソン氏は「企業トップの報酬は役員会と経営陣が取り扱いに苦慮している分野だという全般的な認識がある」と述べる。
  • ブッシュ大統領は先週ウオール・ストリート・ジャーナルに彼は幾つかの企業トップの報酬は過大であり取締役会はこの問題に対する監督を改善する必要があると述べた。
  • 企業トップが貰い過ぎになる理由はその成果を測定する客観的な方法がないことによると調査対象の取締役の6割が述べている。
    • ところで米国の企業トップがどれ位の報酬を得ているか調べてみたくなった。調べ方は簡単で検索エンジンに「CEO Pay」と入力する。そうするとフォーブスのホームページが出てくるのでそこから調べていくと良い。因みにフォーブスによると年間報酬(給料プラスストックオプションなど)が一番高いCEOはヤフーのSemel氏で、年間報酬は2億3千万ドル、円換算すると270億円近い。内サラリーは60万ドルと驚く程比率が低い。要はストックオプションなど株絡みの評価益が大きい。なお前掲のフォーブスの記事から全米トップ5百社のCEOの平均所得を計算すると約10百万ドル11億7千万円だ。

      米国は格差社会だとつくづく思う次第だ。しかし穿った見方をするとCEOに過大な報酬を払っていることは少なくとも次の二つの点で意味を持つ。一つは「若い世代の励みになる」ということだ。次の一つは「社長を辞めればハイ、さよなら」で顧問・相談役等での居残りなしという点だ。これだけ報酬を貰っているともう閑職で会社に居座る理由はないだろう。日本では社長・役員の報酬が低いので何時までも会社に居座る・・・・などというと僻事と言われるだろうか?

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      エコノミスト誌は日本の不動産に強気

      2007年10月14日 | 金融

      外人投資家が日本特に東京の商業不動産に強気なことはこのブログでもしばしば書いている。同じネタで恐縮だが今週のエコノミスト誌も東京の不動産に強気だ。ポイントを紹介しておこう。

      • 日本の商業用不動産は16年ぶりに価格が1%上昇した。東京、大阪、名古屋では商業用不動産価格は昨年10.4%上昇している。東京の表参道では4割地価が上昇した。
      • 回復の礎石は90年代後半の景気後退期に築かれた。この時債務に喘ぐ銀行と企業が外国人投資家に不動産を売却した。国債の低金利が続いたので、国内の投資家も新しい投資信託のスキームを使って慎重にマーケットに戻ってきた。
      • 外国人投資家はずっと熱心な買い手である。ゴールドマンザックスは97年以降約150億ドルの資金を日本のオフィスビルkらゴルフコースに投入している。8月にはテファニービルを2003年にティファニーが買った値段の2倍の3.3億ドルで購入している。
      • 第二次世界大戦以降初めて日本の不動産は始めて利回り指向になっている。利回り指向、イールドドリブンとは家賃収入と借り入れコストの差が投資の動機となるということだ。日本の商業不動産にはまだ上昇する余地があると思われる。世界的な信用市場が行き詰らなければの話だが。大部分の土地は1970年代に比べると安い。東京の商業用不動産の価格はバブルの頂点の1988年に比べると数分の一である。

      エコノミスト誌は東京の賃料と6大都市の地価の簡単なグラフを用意している。賃料については1985年の家賃を100とすると、90年代初めに270位に上昇し、その後130位に低下し2005年頃から上昇に転じて今140強である。地価は2004年頃から上昇に転じている。グラフを見ると地価の上昇の方が賃料の上昇に先行している様だ。

      そういえばまだ行っていないが、先月銀座に新しい商業ビル・マロニエゲートがオープンしている。中々の人気だそうだ。新しい風にも当たらないと世の中の動きを見誤るかもしれない・・・などと考えている。

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      紅葉の苗場山登山

      2007年10月14日 | 

      10月12日金曜日一日休みを取り、土・日で苗場山に紅葉登山をすることにした。今回は写真撮影を中心にするので単独登山だ。12日午前6時30分マイカーで西東京市の自宅出発。今日は苗場山山頂の小屋泊まりなので余り早く着いても退屈する。そこで越後湯沢まで高速で行くのを止めて、月夜野ICから三国峠越えで苗場山へ向かう。三国峠の手前から空模様が怪しかったが車が三国峠を越えると完全な雨となった。食料品を苗場スキー場のある浅貝付近で購入しようと思っていたが、コンビニは空いていない。カーナビには出ていたのだが・・・・三国峠を通る場合は手前の月夜野付近のコンビニで買い物をするべきだ。

      結局食料品を求めて越後湯沢近くまで行き一番手前のセブンイレブンでこの日の昼食やお酒のつまみを仕込む。ところがこのお店はお酒は売っていない。レジのお姉さんに聞いたところ、信号3つ先のSave onの隣に酒屋さんがあることが分かり、そこでウイスキーの小瓶を買った。まだ雨は強く降っていたが、天気予報では良くなるので和田小屋に向かう。午後10時30分和田小屋下の駐車場到着。道草を食わなければ自宅から3時間程度で来ることが出来そうだ。駐車場は和田小屋の下徒歩25分のところにある。雨は完全に上がったので身支度を整えて10時47分出発。今回はカメラの三脚と広角・望遠の交換レンズを持っているのでズシリと荷物は重い。11時10分和田小屋着。少しスキー場の中を歩くと道はブナの林に入る。ブナが栂の木に変わる頃下ノ芝到着12時10分。ここは黄色い紅葉が多い。

      Simonodaira1

      13時15分頃中ノ芝到着。ここは紅葉が本当にきれいで感激する。今回の登山で一番紅葉が美しい場所だった。

      Nakanosawa1

      中ノ芝から上は所々笹の斜面となり視界が開ける。振り返ると平標山や仙ノ倉山が見えるが頂上は雲の中だ。小松原分岐を過ぎると神楽峰の頂上は近い。頂上は特に休む程の場所でもないので2時10分頃通過した。さてここから少し南に回りこむと苗場山が迫力をもってのしかかって来る。神楽峰から130m程下る。鞍部にはお花畑の名前が付いているが、この時期には何もない。枯れ草が秋の風にそよぐのみである。苗場山本峰には50分近い一気の登りだ。ここから見る苗場山は深い逆光に沈んでいてただ大きな塊に見える。潅木と滑りやすい泥混じりの急坂を登り切ると突然広々とした高層湿原の世界が広がった。午後3時10分苗場山山頂到着。山頂には2軒山小屋があり、今日は自然体験交流センターに泊まることにしていた。小屋の前に荷物を降ろし、暫く高層湿原の写真を取る。三脚を立て望遠レンズで高層湿原の景色を撮ってみた。

      Sannchou1

      山頂は風が冷たく、カメラや三脚をさわっていると手がかじかんでくる。

      Sanchou2

      この日の夜は稲城市から来た同年輩の単独行の男性と話が合い一緒にお酒を飲んでいた。100名収容の小屋だが本日の泊まりは8名内女性が5名だった。どうも交通の便が良くなり苗場山を日帰り登山で登ることはそれ程困難ではなくなったため、山頂小屋の宿泊者が減っている様だ。

      13日日曜日どういう積もりだったか、朝ごはんは注文していなかった。思うに山小屋の朝食代が高いのに憤慨していたのかもしれない。従って皆が朝ごはんを食べる前にビスケットをかじって出発する。時間は6時。夜来の雨はほんの一部雪に変わった様だ。木道の上に1,2mmの雪が薄っすらと残っていた。苗場山を降り神楽峰に登り返す登り口の近くに「雷清水」という湧き水がある。ここでお湯を沸かしてインスタント・ラーメンを食べた。霧が深く苗場山は全く見ることが出来ない。

      7時40分中ノ沢到着。霧は少し晴れてきた。和田小屋方面からは続々と登山者が登ってくる。

      Nakanosawakiri

      中ノ芝を出ると次の目標は下之芝だ。天候はパッとしないが雨が降る様でもない。

      中ノ芝では赤い色の中心であるドウダンツツジを写真取ってみた。一雨毎に一雪毎にツツジの赤が鮮明になっている。

      Akaiha

      下之芝付近で広葉樹の姿をとらえました。

      Akisemaru

      9時30分駐車場着。苗場山からの下山道はぬかるんでいてスパッツや雨具のすそがドロドロになった。昨日は4,5台の車しかいなかった駐車場も今日は満杯で一部道にはみ出していた。ところで下の写真は最近ジョイフル本田で買ったスケッチ用の椅子(1200円位)だ。スケッチはご無沙汰しているが、車に積んでおくと登山靴の履き替えなどにとても便利な小道具だ。

      Isu

      帰路は湯沢ICに向かう。日帰り温泉が簡単に目に付けば入ろうと考えていたが、目に付かずそのまま高速に入ってしまった。結局風呂は家の近所の「王様のお風呂」になってしまった。ここはスーパー銭湯なのだが、ジャグジーやサウナが揃っていて悪くはない。しかし湯沢の温泉より近所のスーパー銭湯を愛好するようになってはアウトドアマンの旗印をおろさなければならないかもしれないなどと思いながら、私は正午の陽の光を銭湯の露天風呂で浴びていた。

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      「父・藤沢周平との暮し」を読んで

      2007年10月11日 | 本と雑誌

      昨日藤沢周平の一人娘の遠藤展子さんが書いた「父・藤沢周平との暮し」(新潮社 1,400円)を買い往復の電車で読んでしまった。

      私は藤沢周平が好きだが、その理由は幾つかある。一つは運命に生きる人間の健気さを描いているからだ。周平の時代小説の登場人物は定めを定めとして受け止め、その中で一生懸命に生きている。その生き方に深い共感を覚えるのだ。次に藤沢周平という人の謙虚で律儀な生き方が良い。「父との暮し」の中にも周平氏の律儀さが出ている場面が幾つもある。例えば「サイン本あれこれ」の中の「父は本のサインや色紙を頼まれると、多くの場合、きちんと墨をすり、筆を使っていました」。また「父が教えてくれたこと」の中では「父から言われた言葉で、心に深く残っているものが、いくつもあります」と言って「普通が一番」「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」などという言葉が紹介されている。

      最後は私固有の理由だが、藤沢周平が西武池袋沿線にずっと住んでいたことである。いわばご近所の人であった。「父との暮し」の中にもかなり詳しい固有名詞が出てくる。例えば周平氏が公立昭和病院に入院して奥さんがバスに乗らず花小金井から病院まで通ったというくだりを読むと今度私も試しに同じ道を歩いてみようなどという気になる。

      以上のような理由で私は彼のファンであり、かなりの著書を読んでいる。しかし周平氏が娘の展子さんに残した言葉例えば「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」などということが実践できているかというと甚だ心もとない。論語読みの論語知らずという言葉があるが、周平読みの周平知らずなのかもしれない。

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