金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

少なくとも二つは良いデフレもあると思うが・・・

2010年05月01日 | 社会・経済

「現在の日本経済が抱える最大の問題はデフレである」という考えは、マスコミや政治家が喧伝し一般的に信じられているところだろう。「デフレは悪いことか?」と聞かれたら私も小さな会社の経営陣の一角としてやはり悪い面が多いと答えるだろう。デフレ下では売上が伸びず、利益も伸びない。従って給料も伸びず雇用機会も萎縮しているからだ。

ただしである。私はデフレといわれるものの中にも少なくとも二つは「良いデフレ」があると考えている。いや「良いデフレ」というよりは、異常な状態から正常な状態への回帰という方がより正確だろう。

その一つは「土地の価格の正常化」でもう一つは「爛熟的な記号消費の終焉」である。

土地の価格の正常化については今日(4月30日)の日経新聞朝刊「経済教室」が世界的な比較の中で土地の値段の問題を論じていた(だからこのエントリーを書く気になったのだが)。

「経済教室」によると「土地資産額のGDP比率は、一般的に産業革命以降、諸外国で次第に低下し、20世紀後半には1前後の値をとる国が多くなっていた。一方、日本の値は、1990年前後のバブル景気のピーク時には4にまで達し、バブル期以外の時期も2前後と相対的に高くなっている」ということだ。

「経済教室」の調査は日本、フランス、オーストラリア、カナダの4カ国について土地資産総額とGDPの比率を較べたもので、これによると、2008年現在の日本の土地価格のGDP比率はフランス・オーストラリアとカナダの中間で約2倍となっている。2倍がノーマルな状態かどうかは分からないが、少なくとも4倍は異常だったといえるだろう。とすれば土地価格の持続的な下落は正常な状態への回帰と考えることができる。

もう一つの「爛熟的な記号消費の終焉」について。「記号消費」とはフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが1970年に言い始めたことで、商品が本来持っている機能的価値とは別に、現在の消費社会では社会的な付加価値の方が重視されていることを指す。

「電子書籍の衝撃」(ディスカヴァー・トゥエンティワン社)の中で著者の佐々木俊尚さんは「ベンツを買う人の多くは、クルマとしてのベンツを買い求めているのではなく、社会的ステータスとしてのベンツを求めている。これが記号消費です。」と述べている。佐々木さんはまた「『これがカッコイイ」「これがオシャレ」といった感性的な情報が流され、みんながそれに振り回されまくった-それが記号消費が行き着いた先、爛熟の1990年代に日本に起きた現象でした」と続ける。

例えば高級ブランドのルイ・ヴィトンのバッグが若い女性にドンドン売れていた時代。日本は世界で唯一マス・ラグジュアリー市場があるといわれた。高級品を意味するとラグジュアリーと大衆商品を意味するマスが並存する不思議な市場が一時の日本にはあった。だが長引く不況の中で高級品市場は収縮し「モノで自分を語る」という思考も消滅していく。これが「記号消費の終焉」である。

私はこれもまた正常な状態への回帰であると考えている。私は時々ブログでも「男にはファッション(流行)はいらない。男に必要なものはファンクション(機能)である」と述べるのだが、有名人でないのでこのマントラは余り流行らない・・・これは余談です。

「デフレは悪い。老後の不安を解消して中高年の消費を増やそう」とか「日銀がインフレターゲットを設定して、流動性をドンドン供給するべきだ」などというデフレ対策論を聞く時、私は消費者としての視点が欠けているなぁと感じざるを得ない。「モノで自分を語っていた時代」はひょっとすると精神的には不毛な時代だったかもしれないという反省も必要だろう。その中から真に人間的に豊かな社会を構築する~例えば住生活を充実する、バケーションを沢山取る、お年寄りなどにノーマライズされた生活の場を提供する~ことでデフレ脱却を図っていくというのが正常な道筋ではないだろうか?

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする