金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

残す思いと残さぬ憾み

2013年10月26日 | うんちく・小ネタ

「ブームとしての終活は怪しい」ということは少し前にブログで書いた。怪しいという意味はブームにはそれで金儲けをしようと考えている人がいるから怪しいと書いた。

「生者必滅会者定離」、Man is motalである。そこにブームなどはない。またもし良い死に方というものがあるとすれば、それは良い生き方の帰結である。納得の行かない生き方の先に安心(あんじん)の死はない。

つまり必要なのは「終活」ではなく、その日その日を納得して充実して生きる「生活」が必要なのである。

とはいうものの「残された家族の負担をできるだけ軽くする」ような準備は必要だ。その準備を「終活」と呼ぶのであれば(好きな言葉ではないが)、その「終活」まで否定する否定するつもりはないし、インターネットの普及や医療技術の進展が作り出した複雑な社会では以前より「終活」の重要性が増していることも十分認識している。

だが原点に帰って考えるとやはり「憾みを残さない生き方」をして「良い思い出を周りの人に残す」というのが「生活」の基本なのだろう。

「憾み」は「物足りない感じ」であり、反感を意味する「恨み」とは違う。最近読んだ磯田道史さんの「歴史の愉しみ方」の中に江戸末期の蘭方医・大槻俊斎の話がでてくる。俊斎は天然痘から人々を救うために種痘所を建てた。種痘所はやがてわが国初の官立西洋医学校になり、俊斎は初代頭取となり、医師の頂点を極めた。磯田さんは「この天才医は死に臨み「われ死すとも憾みなし」といったという。いい言葉だ。しかし天才に生まれなくても、それはできる気がする」と書いている。

できるか?と言われると私には自信はない。なぜなら私ははっきりとしたライフワークをもっていないからである。宿題がない、あるいは宿題を認識していないので、達成感が認識できない。だからこのまま行くと憾みが残る可能性があるのだ、と反省はしているのだが。

一方「思い出を残す」方が簡単なのではないか?と示唆する言葉がある。ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「死をイメージする闘病記を」(週刊東洋経済10月26日)の中で次のように書いている。「(柳田さんが19歳の時に亡くなった)父からもらった最高の財産は”静かな死”だと思っています。・・・僕のケースで考えてみると、父親は生きているわけですよ。・・不思議なことに、死ぬと精神性が残るのです。何かあれば、親の生き方や言葉がよみがえってきて、人生の道しるべになってくれる。・・・・本当に納得できる最後の日々をおくらなければならないし、最後をよりよく生きることが”死後の未来”につながるという希望さえ湧いてきます。」と書いている。

二つの話を合わせると、納得できる最後の日を送れば本人には憾みは残らず、周りの人には良い思い出がいつまでも残る。つまり人は死んでも残された人々の精神の中では生き続ける・・・・ということになるのだろう。

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【書評】歴史の愉しみ方・・・磯田さんの語りがいい

2013年10月26日 | 本と雑誌

磯田 道史さんは私の好きな歴史家だ。磯田さんは「武士の家計簿」の著者だ。NHKのBS歴史館に出演していることも多い。テレビで磯田さんを見ていると実に楽しそうに歴史のお話をする。目がいきいきと輝いている。その磯田さんの著書を徹底的に読んでみることにした。このような場合私は近くの図書館を利用する。インターネットを使って磯田さんの著書を片っ端から予約するのである。

さてまずは「歴史の愉しみ方」。「忍者・合戦・幕末史に学ぶ」というサブタイトルがついているが、それだけに限らず面白い話、ためになる話がたくさん載っていて2時間ほどで読んでしまった。

いくつか気に入ったところを書き抜いておこう(ブログをメモ帳にしておくと、まとまったエッセーを書いたり、人前で話す時に便利だ)。

「南北朝から室町の内乱はよほど激しかったのだろう。この時期から日本人の総軍事化が始まり、武人の風が庶民にまで滲み込んだ」

「武家では死んだ先祖の霊力が鎧兜に宿る。・・・武家の鎧兜はあえて近代風にいえば『自家用の靖国』だ。・・・・士族はみな討ち死にしても行き先があった。家に戻り、家の鎧兜に宿って武神になればよかった。」 (以上「『武士の家計簿』のその後」の章)

「民族によって西洋人にはじめて出会ったとき、興味を持つ事物がどうも違う。西洋帆船に乗せてもらうと、朝鮮人は書物、琉球人は地球儀、アイヌは無欲で何も欲しがらず、日本人は滑稽なほど武器に興味をもっている。・・・日本人の兵備への関心は突出していた。武の国といってよかった。」

「ロシア海軍士官ゴロウニンは『(日本は)偉大な王者が君臨すれば、多年を要せず、全東洋に君臨する国家になる。短期間のうちにヨーロッパ列強の海軍と比肩できる違いない』といった。それが1811年のこと。」(以上「日本人の習性は江戸時代に」の章)

「司馬(遼太郎)さんは、明治人のリアリズム、とりわけ、薩人の的確な判断力について書いている。・・・・薩人には、「もしこうなったら」とあらかじめ考えておく「反実仮想」の習慣があった。・・・・薩人の判断力の正体は高い反実仮想力であったといってよい。・・・薩摩では詮議と称し、子どもに色々と仮定の質問をなげかけて教育した。・・・おそらくこのような実践的な教育は、戦国時代の日本では、ひろく行われていた。・・・江戸時代になると、あらかじめ解答のきまったものに答える予定調和的な教育が日本中に蔓延した。ところが、薩摩という最果ての地に、知識よりも知恵を重視した実践的な教育が残っていた。」(「司馬さんに会えたらという反実仮想」の章)

☆   ☆   ☆

以上のことから幾つかのことが浮かんでくる。

*歴史的に見ると日本は日本は「武」重視の国であった。中国には「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」という諺があるとおり、歴史的に「文」を重視した。「武」重視の思考スタイルが近代化・西洋化という迅速な構造改革を可能にし、「文」重視の思考スタイルは近代化を著しく遅らせた。

*「武」とは「反実仮想」の習慣という言葉が示すとおり実践的であり、合理的であり、プロジェクト的である。一方「文」とは形式的で、ルーティン・ワーク的である。ずばっというと「武」は結果重視であり、「文」は手続重視である。

*誤解を恐れず言えば「武」の軽視・「文」の重視は災害時等に「官の力の弱さ」となって最近では目立ってきた。最近の一例をあげると伊豆大島の土石流災害。午後6時過ぎに都庁が流したファックスが、町役場の職員が退庁したため6時間も放置される始末。

*色々な面で日本は今先例がない時代に入りつつある(たとえば何時次の大地震起きるかは分からないが、日本は地震活動期に入ったと私は感じている)。そこでは「想定外」のことが起きるだろう。まず「想定」の枠を広げることが必要だ。幕末の開国や倒幕では色々な「想定外」が起きたが、それに対応できたのは「武」の思考スタイルがあったからだ。「想定外」のケースを含めたケーススタディ(磯田さん流でいうと反実仮想)が必要。

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伊豆大島の土石流災害、一部はファックスの問題

2013年10月24日 | ニュース

WSJ(JapanRealtime)に「伊豆大島の土石流災害の責任の一部はファックスにあった」という記事がでていた。この話は産経ニュース(ネット版)などでも見たのですでに多くの人がご存知だろうが、ファックスの問題を論じるスタート点としてあえてポイントを紹介したい。

WSJによると「当日午後6時5分に気象庁は伊豆大島と三宅島に土石流の危険があるという警戒情報を出し、その情報は東京都庁に伝達された。都庁は両島にファックスで情報を流した。情報を受け取った三宅島では、住民に避難勧告を出した。しかし伊豆大島では1名のガードマンを除き役所の全スタッフが退庁していて、ファックスを見たのは6時間後すなわち深夜に近かった。同町ではその時刻から住民に避難勧告を出すのは危険過ぎると判断した」

WSJは世界トップクラスの高速インターネット網やウェブユーザの数を持っているのに、日本の役所や企業はいまだに1970年台後半から80年台前半に導入されたファックスに非常に依存していると述べていた。

☆    ☆    ☆

この問題はおそらく今後当日伊豆大島の町長が宴席に出ていた(週刊誌の見出しネタ)こととともに議論の対象になるだろう。

さてファックス依存というと、来月日本相続学会の研究大会でもファックスは大いに頼りにされている。その仕組は次のとおりだ。

1.参加希望者は取引銀行から研究大会用の銀行口座に参加料を送金する。

2.参加希望者は送金依頼書の控え(受取証)を指定の申込書(ファックス用紙)に添付し、大会事務局にファックスする。

3.大会事務局は受信したファックスと銀行口座を突合し、参加者リストを作成する。

4.大会事務局は参加票を作成し、参加者に郵送する。

なお大会事務局のファックスはバーチャルなFAX機(通信会社のサービスを利用)で、送られてくるファックスは直接FAX機からプリントアウトされるのではなく、電子メールで手元のパソコンに入ってくるのである。

つまり入り口はファックス、中継はインターネット、アウトプットはイメージ(PDF)の印刷ということである。

入り口を電子メールにして、メールに受取証を添付して(あるいは送金銀行・送金日・金額など記入して)送るようにすれば簡単なはずなのだが、参加希望者は電子メールよりファックスを選好するという話だ。

これは学会メンバーの中心がアナログ系といわれる60前後のオジサンが多いことによるのだろう。

だが本当に60前後のオジサンがアナログ系か?というと必ずしもそうではないという見方もある。インターネットを活用して、買い物をしたり列車の予約をする人が多いのもこの世代だ。

ひょっとすると「インターネットでしか申し込みできません」という位の高め球を投げても良かったのではないか?と考えているところである。

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ベア実施企業は買い?日本電産の場合だが。

2013年10月23日 | 投資

昨日(10月22日)の取引時間終了後に決算発表をした日本電産。2014年3月期の純利益は前期比6.9倍の550億円で、従来予想の535億円を上方修正。配当は5円増配して90円へ。

これが好感されて今日の株価は5%近く上昇している(10時40分現在)。

日経新聞朝刊によると日本電産の永守社長は「来春廃止される復興特別法人税の分を社員に還元し、安倍政権が要望する賃上げに協力しデフレ脱却政策を支える必要がある」と述べて来春ベアを実施すると表明した。大手企業の中でベア実施を表明した日本電産が初めて。

ベアが実施できるということはそれだけ収益力があるということ。

社員のモチベーションも上がるし優秀な人材の採用にもつながる。ベア実施企業は買いか?(笑い)

ただし個人的なことをいうと日本電産の株価は今年2月頃まで低迷していたので、しばらく塩漬けか?と考えたこともあった。だが上がり出すと早いのがこの手の株だ。

現在9200円付近で取引されている同社株。過去の最高値(1.1万円位)に挑戦すると強気の見方をする筋がある一方SMBC日興証券のレポートでは5248円が理論株価で結構割高になっているそうだ。

でも永守社長の心意気を評価してもう少しホールドしましょう。

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「ブーム」としての終活の怪しさ

2013年10月23日 | うんちく・小ネタ

先日10月26日号週刊東洋経済を買った。「いま知りたい終活」という終活特集である。雑誌には「ネタに困ると京都特集を組む」という秘策があると聞くが、昨今のビジネス雑誌には「ネタに詰まると相続や葬儀など終活関連を取り上げる」という裏ワザがあるようだ。実際今週は他の雑誌も相続特集を組んでいる。相続学会の専務理事という立場から参考までに一つ読んでみた次第。

「終活」という言葉がいつ頃から流行りだしたのかは知らないが、昨年12月にはユーキャン新語・流行語大賞でトップ10に選ばれている。「終活」は「就活」や「婚活」と同じ流れの造語であるが、私にはこのような造語の裏には、ブームを作り出して一儲けしようと考えている人の陰がチラチラ見えてある種の怪しさが感じられる。

「終活」という言葉を英語に訳すとPreparation for deathとなるだろうが、英語の「死の準備」という言葉に較べて「終活」という言葉はいかにも軽くて尊厳を欠いている。

東洋経済の記事をパラパラめくりながらその理由を考えてみると、「終活」には精神面の問題がほとんど触れられていないことに気がついた。

たとえば「あらためて知りたいお葬式」の項目をみると「葬儀費用はいくらかかるのか」「葬儀社選びで失敗しない方法は」「住職にお布施をいくら渡せばいいのか」など金と儀式と世間体の話ばかりなのである。

恐らくPreparation for deathで「精神面の死の準備」が全く語られず、「金としきたりと世間体」が話題の中心になっている国は日本ぐらいのものではないだろうか?

キリスト教文化圏の人々はPreparation for deathと聞くと恐らく「牧師を呼んで最後の告白をする」ということを思い出し、ヒンズー教文化圏の人は住み慣れた家を出て火葬場のある寺(例えばネパールではパシュパティナート寺院)に移り、静かに最後の時を待つことを想起するのではないだろうか?

Preparation for deathは総ての文化圏でそれぞれ固有の伝統的な手順があるのだが、日本の場合は都市化と急速な核家族化さらにはその核家族の崩壊により、伝統的手順が霧消しているのが現状なのだ(もともと日本人の宗教心のあり方が他の文化圏のそれとは相当異なるという面もある)。

バブルの頃は派手な社葬が流行り、個人葬でも裕福な人は高いお布施を払って立派な戒名を貰うことが流行った。今ではその反動で小規模な家族葬が増えつつあると聞く。

何故こういうことが起きるのか?というと葬儀を出す方もそれを執り行う葬儀社や寺院も葬儀を経済的なイベントととらえているからである。

例えば仏典のどこをひっくり返しても立派な戒名を貰うと極楽に行けるとは書いていない。立派な戒名で儲けるのはお寺である。だからお寺の旗振りで戒名はインフレ化した。

つまり儲けを狙う人が常にブームの旗を振るのである。今の「終活」ブームの旗を振っているのは誰か?

葬儀屋、お寺、不動産会社、本業では食べていけない司法書士、行政書士、税理士などのサムライ業、出版社などなどである。

それらの人が総て怪しいとは言わないが、私は「踊る終活ブーム」には怪しさを感じている。そもそも何時の時代も総ての人は死ぬ。死の迎え方にブームなどある訳がない。Preparation for deathの中心に「人は皆死ぬ。だから恐れることは何もない。あの世に持っていけるものなど何もない。いかなる厚葬も魂の救済には無縁である。」というごく当たり前の概念を据え付けないようなコンサルティングなど総て怪しい私は考えている。

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