金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

【福島駆け足旅行】岳温泉・あぶくま洞

2008年08月07日 | インポート

磐梯山の麓に近い慧日寺跡を見た後は、岳温泉に向かった。国道115号から459号を経由して1時間ほどのドライブだ。泊まった宿は「喜ら里(きらり)」という温泉街の中のこじんまりとした宿だ。http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/14357/14357.html インターネットで見ていて値段(1万4千円弱)と建物の作りのバランスで選んだがこれが中々に正解。到着時にソフトドリンクとケーキのサービスがある「レディースプラン」を選んでおいたところロビーでちゃんとアイスコーヒーがでた。クーラーの効いた車に乗っているとはいえ、炎天下の旅行である。宿に着いた時のこのサービスはうれしい。岳温泉は山麓の小さな温泉でこれといった特徴がない。周辺のホテルや土産物屋は寂れた感じだが、この旅館はリニューアルしているのでエントランス、部屋、風呂も良かった。料理はレディースを選んだので、ややボリュームが少ない(お魚中心でお肉なし)が、一品づつ丁寧に出しくれた。健康を考えるとこれでいいのだ。食い切れない程の料理をテーブル一杯にあらかじめ並べておくような、社員旅行スタイルの温泉旅館は時代遅れだと思う。高級な食材はなくても、心をこめて調理し、丁寧に給仕することが大事だ。「喜ら里」にはそんなもてなしの心が感じられた。

岳温泉に泊まった理由は安達太良山に登るためなのだが、4日(月曜日)目が覚めると激しい雨だ。安達太良山はあきらめて「あぶくま洞」という田村市にある鍾乳洞を見に行くことにする。

「あぶくま洞」は日本の三大鍾乳洞の一つらしい。らしいというのは、山口県の秋芳洞と岩手県の竜泉洞は当確だが、残る一つにはあぶくま洞を入れる人や沖縄の玉泉洞を入れる又は高知の竜河洞を入れる人がいるからだ。

岳温泉から磐越自動車道を使って1時間ほど走るとあぶくま洞に着く。手前から石灰岩の切り立った崖が見え中々の迫力だ。洞の中はかなり涼しい。

Shounyuudou1

石灰岩はライトアップされている。目で見た色と写真に撮った色はかなり違う場合が多い。ホワイトバランスを調整して撮影する。この写真は比較的見た感じに近い。

Shounyuudou2

あぶくま洞は予想(奥多摩の日原鍾乳洞より少し大きい位かと思っていた)よりかなり大きく見学に30分ほどかかった。訪問者の構成は老若男女バランスの取れた感じだった。

東京からわざわざ行く程のところではないと思うが、雨で山に登れない時に立ち寄るには中々良いところである。

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銀行の証券化業務縮小プラン

2008年08月07日 | 金融

JPモルガン、シティコープなど大手銀行は、証券化商品が引き越した信用危機に対処して、改革方針を打ち出そうとしている。ファイナンシャルタイムズ(FT)によると、銀行のプロポーザルの中で最も予想外のものは「ソフィスティケイティドな投資家」に関する投資規制である。ソフィスティケイティドとは「洗練された」という意味で、投資判断能力と一定額以上の純資産を持っている投資家のことだ。

現在計画されている案では年金基金や他の機関投資家でも、サブプライムローンで担保された証券を買うことは自動的には認められない。また大部分の富裕個人投資家はオークションレート証券のようなストラクチャード商品を買うことを禁じられる。このオークションレート証券市場というのは、地方公共団体や学生ローンが資金を調達している33百億ドルの市場だ。

銀行の改革プランの下書きを作った前ニューヨーク連銀のトップ・コリガン氏(現在はゴールドマンザックスのマネージング・ダイレクター)は「市場は複雑な商品によってサンドバッグのようにボコボコに叩かれたのだから、ルールを改正して『洗練された』金融商品は、その商品を理解しモニターできる資源を持った投資家にのみ販売できるようにするべきである」と述べている。

このルール改正の影響を考えてみよう。

銀行にとって証券化の道が塞がれた訳ではないが、販売先はかなり限定されてくる。日本の場合余り複雑な証券化商品は大量には販売されていないが、それでも証券化市場が小さくなることは確かだ。銀行や証券会社は手数料収入のチャンスが減り、リース会社等のノンバンクは資金調達に神経を使うようになるだろう。

オルタナティブ投資を進めている年金基金にとっても、投資スタンスを見直す必要が出てくるかもしれない。「仕組みは良く分からないが、儲かるので投資をする」という時代は終わり「良く分からないものには投資をしない」という当たり前の時代が来るということだろう。

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【福島駆け足旅行】日清館

2008年08月07日 | 旅行記

日新館は会津藩の藩校で、享和3年(1803年)会津若松城の西隣に完成した。私が中学時代に修学旅行で会津に行った時(昭和40年前後)は、会津若松城や白虎隊の遺跡などを見学した記憶はあるが、日新館を見た記憶はない。それもそのはずで、日新館は戊辰の役で消失しているのだ。ところが昭和62年に会津若松の中心地より少し東によったところに完全復旧がされていたので、今回の小旅行で立ち寄ってみた。

勝常寺を参拝した後、10分のドライブで日新館に着いた。昼飯時なので入り口の「楽故亭」というレストランでざるそばを食べた。ところがこのそばが不味かった。まずそばにこしがない。そしてそばつゆのだしがきいていない。立派なのは器だけ、こちらは実に大きかった。

Nissinkan1

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写真は日新館の南門だ。江戸時代は上級武士の子弟のみがここから入ることができたとか。

暑い日である。朝降っていた小雨はいつの間にか完全にあがった。バスを連ねてやってきた小学生が団体で日新館を見学している。広い部屋の中で小学生達は「什(じゅう)の掟(おきて)」を教えられていた。

「什の掟」では「年長者の言うことを聞け」「うそをつくな」「弱いものいじめをするな」「外でものを食べるな」と教える。これらのことは今でもそのまま通用する。うがった見方をすると、江戸時代の会津でも「いじめ」はあったのだ。だから「什の掟」で幼少時代から「いじめ」をいけないことだとおしえたのだろう。「悪いことは悪い」と理屈抜きに子供の時に教えるということが大切なのだ。

日新館のスケールは大きい。

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日新館では儒教のみならず、医学などの実学も教えた。また水練用のプールがあり、日本最初のプールと言われている。

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会津藩は幕末に京都所司代として活躍し、徳川幕府の瓦解後は奥羽列藩同盟の要として最後まで幕府に殉じた。それは精神面の強さだけではなく、教育面の水準の高さと経済力があったから可能だったことだ。逆に言うとそれらがあったことで会津は戊辰の役の後も斗南に流されるという不幸を味わうことになったのだ。

誰が会津藩校日新館を復元したのかパンフレットに書いてなかったが、壮大な藩校を見て回ると今に残る会津人の気概というものが伝わってくる気がする。

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