金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

自動車リースがなくなる日

2008年08月06日 | 社会・経済

自動車メーカーがオートリースで大損をしたので、リース業務の大幅縮小を考えている。もっとも米国の話だが。

ニューヨーク・タイムズによると、GM系列の金融会社GMACのオートリースに関わる損失は716百万ドルに拡大している。その背景はガソリン高で、燃費の悪いピックアップ・トラックやSUVが敬遠され、これらの中古車価格が急落しているからだ。

過去10年間、自動車メーカーはオートリースへの依存度を高めてきた。自動車の中古価格が堅調に推移していたので、自動車メーカーは消費者が毎月の支払い金額が少なくて済む2-3年の自動車リースで車を売ってきた。リース終了時にメーカー(あるいはリース車両の貸し手)は、古い車を引き取る。そしてこれを中古市場で売却する。ユーザとの間で中古車の引き取り価格は最初に決められているから、中古車価格が下落しているとメーカーは損をする。

GMACのHull氏によると中古車価格は、想定した価格(残価)の75%まで下落しているという。

リースが米国の自動車販売の有力な手段であっただけに、メーカーがリースを止めたり、大幅に縮小すると車がますます売れなくなるとディーラーは頭を抱えているとニューヨーク・タイムズは報じている。

日本では個人の自動車リースはそれ程多くないし、燃費の悪い車をリースでガンガン売っていた訳でもないので、同様のことが起きるとは考えにくい。しかしガソリン価格の高騰が車の中古価値に大きな影響を及ぼすということは、消費者としても次の車を買ったり、リースする場合考慮するべきことだろう。

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【福島駆け足の旅】勝常寺・慧日寺

2008年08月06日 | 旅行記

10時過ぎに大内宿を出た私達は、会津若松の中心部を迂回して約1時間で勝常寺のある湯川村に到着した。道は大変空いていた。さらに幸いなことにタクシーで拝観に来られた4人組の方が、お寺に収蔵庫の拝観を予約されていたことである。勝常寺には国宝の薬師三尊の他、重文の四天王像など優れた仏像がおわすが拝観するには予約が必要だ(私達は予約していなかった。電話番号は0241-27-4566)。

仏像の国宝はそれ程多くない。東北地方で国宝の仏像というとここ勝常寺の薬師三尊の他は中尊寺の諸仏のみだ。それだけに遠路会津に来て偶然国宝の仏様を拝観できたことは、非常にラッキーな感じだ。

Shoujyouji1

写真の薬師堂は重要文化財だ。ご本尊の薬師如来のこの中にいらっしゃる。住職の奥さんと思われる方が、薬師堂を開け私達を案内してくれた。「漏電の危険性があるので電気はない」という説明の後、案内の方が厨子の前の紐を引くと厨子が開き、薬師如来が現れた。暗いので女性が懐中電灯で像を照らしてくれる。(如来さんに失礼じゃないかな?)と思ったが、昔は如来さんが世の中を照らし、今は拝観客のために如来さんが照らされる番なのだと思えば罰は当たるまい。

両脇の日光・月光菩薩は薬師堂の右手のコンクリート造りの「収蔵館」に収められている。入来・菩薩様とも体に比べて手が小さいことやあごが張らずすっきりしていることなどが特徴のようだ。

勝常寺はかって七堂伽藍を備え末寺100ケ寺を持っていたといわれる。私は会津盆地を車で走りながら、何故会津にこれ程仏教が栄えたのかを考えていた。答の一つは豊かな水田である。会津盆地の水田は見事だ。その生産力の高さが大寺院の建設を可能にしたといえるし、大寺院が病院や学校の機能を担うことで農民たちの生活に役立ったといえる。

勝常寺を建立したのは法相宗の僧・徳一(とくいち)上人という説がある。薬師堂には徳一上人自作と言われる像が収められていた。徳一上人は藤原仲麻呂の子供だという説がある。会津地方に藤原氏の荘園があったとすると、徳一上人がここで布教を行い、大寺院を建立したとしても話の辻褄は合いそうだ。

もっともこれらのことを学問的に説明する程の資料を私はまったく持ち合わせていないので、これは推論の域を出ないが。

徳一上人のことを思い出したところで、磐梯山の麓に近い慧日寺跡に寄ってみた。跡というようにここには昔の建物はない。

Enichiji

写真は今磐梯町が復元中の金堂だ。その裏手の草むらを少し歩くと徳一上人のものといわれる供養塔があった(お堂の中に入っている)。

Tokuichi

遺跡を発掘し、歴史の闇の部分を明らかにしていくことは必要な作業であると思う。しかし昔に消滅したお寺を~特別の宗教的目的もなく~復元することにそれ程意味があるとも私には感じられなかった。総て形あるものは滅ぶ。むしろこの哲理を悟ることの方が仏教の教えに適うのではないだろうか?などと考えながら私は会津仏教を訪ねる短い旅を終えることにした。

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【福島駆け足旅行】大内宿

2008年08月06日 | 旅行記

小雨の降る中「塔のへつり」から10分程車を走らせると大内宿(おおちじゅく)についた。大内宿については司馬遼太郎の「街道をゆく 奥州白川・会津のみち」に次の記述がある。「大内宿は、江戸時代の宿場のけいかんをよくのこしているといわれる。いまでは知名度がたかいが、二十余年前は、福島県以外の人で知る人はまずいなかったらしい」

この文章が書かれたのは、1988.9年だから今から20年前のことだ。司馬遼太郎は「大内の小盆地に入ったとき、けしきのすがすがしさにおどろいた。」「残っている規模が大きく、戸数五十四戸が、整然とならんでおり、どの家もよく手入れされていて、たったいま会津若松から、松平候の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくはない」

Ouchijyuku2

私達が大内宿に入った時は小雨が降っていた。「参勤交代の行列」は少し大げさで、五十軒の民家は大半が軒先でみやげ物を売ったり、蕎麦屋などを営んでいてこれを見たら松平候も仰天するだろう。

Ouchijyuku1

中央の道路の両脇には山の水が走り流れている。ところどころに洗濯のための石積みがあり、そこでラムネなどを冷やしているところが風情がある。大内宿は昔の会津西街道(関東側の呼び名で、会津側は下野街道と呼んだ。国道121号線)の雰囲気を伝える良い場所だ。

大内宿の入り口に近い「三澤屋」さんでコーヒーを飲んだ。ここにはパン工房がある。250円のコーヒーにエゴマの入った小さなケーキを付けてくれた。なかなかしゃれた店である。二階にあがると、車輪のようなものを加工したテーブルがあった。

Misawaya

コーヒーを淹れていたおばさんに「あれはなんですか?」と聞くと「しらねぇな」という素っ気のない返事が返ってきた。しかしその素っ気なさが自然で良い。

司馬遼太郎は「それにしても、この大内のひとびとは、見上げたものといわざるをえない。江戸時代が去り、もはや参勤交代の行列がやって来なくなっても、住居や村を変えようとしなかったというのは、遠いむかしからの日本人の心だったいうべきだろう」と結んでいる。

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