昨日(11日)ワイフとNHKの「その時歴史は動いた」で江戸後期の探検家・間宮林蔵の樺太探検を観た。間宮林蔵は樺太が島であることを発見し、樺太とアジア大陸の間の海峡を渡りアムール河まで行った。彼の功績を称えてこの海峡は間宮海峡と呼ばれている・・・・と我々は記憶している。
念のため外国でもそう呼んでいるのか確認しようと昔買った英語の百科事典の付録(といってもすごく立派な)地図をワイフが見たところ、間宮海峡の「ま」の字もなく、海峡にはタタール海峡(英語ではStrait of Tartary)の名前があるばかりだ。
インターネット百科事典のWikipediaで調べると、一般的にはタタール海峡と呼び、中国では韃靼(タタールの中国名)海峡、日本では間宮海峡、ロシアではネヴュリスコイ海峡と呼ぶ。ネヴュリスコイはこの海峡を始めて南北に船で通過し、オホーツク海から日本海に抜けたロシア人だ。
因みにこの海峡を「間宮の瀬戸」として始めて世界に紹介したのは、シーボルトである。ただしシーボルトは海峡の一番狭い部分(林蔵が横断した部分)に「間宮の瀬戸」の名前を与え、海峡全体はタタール海峡と呼んでいる。シーボルトと間宮林蔵の関係は中々興味深い。シーボルトはいわゆる「シーボルト事件」で1828年に海外追放になっているが、彼を幕府に告発したのが間宮林蔵だと言われている。間宮に告発の意図はなかったという話もあるが、長くなるので省略する。なおシーボルトが大著「日本」の中で「間宮の瀬戸」を紹介するのは彼が帰国してからのことである。シーボルトは彼の追放に間宮林蔵が関与していたことを知っていたのだろうかどうか?・・・・・中々興味のあるところで何時か小説にしたいとも考えている。
韃靼海峡というと昭和初期の詩人・安西冬衛に「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」という詩がある。
英語でタタールというと、英国の詩人ウオルター・デ・ラ・メラWalter de la Mareに「タタール」という詩がある。「もしも私がタタールの王様であれば・・・私のベッドは象牙のはずだ・・・私の森では虎がさまよい・・・」といった内容。安西とメラはほぼ同時代の詩人だ。内容を見る限りどちらかの作品がどちらかに影響を与えたとは思わない。日本と英国の詩人は別々に韃靼・タタールという言葉にエキゾチックな感興を覚えたのだろう。間宮海峡では「詩」には成り難く、ここはやはり韃靼海峡でなくてはならないだろう。
色々な呼び名のある「間宮海峡」だが、このこと自体色々な利害が交錯したことの証だろう。ところで樺太の原住民(アイヌ人)はこの海峡を何と呼んでいたのだろうか?あるいは特段名前もなかったのだろうか?これも今後調べたいことだ。
樺太が島であることを始めて証明したのは、間宮林蔵だというが原住民の間では昔から島であることが分かっていたらしい。地理的発見とは常に発見する側の理屈だという一例である。