今回の原発事故に関する政府発表について「今の政府や東電の情報意識は『大本営運営発表』と変わらない」と指摘する識者もいる。「大本営発表」は都合の良いところだけ(捏造することもあったが)伝え、都合の悪いところは伝えないというものだった。このような情報意識の背景には、非常に好意的に解釈すると「出来るだけ明るい情報を伝えて、人々を安心させたい」という意識があるといえる。
だがこれは好意的過ぎる解釈で、「論語の誤った解釈による上から目線」というのがより妥当な解釈だろう。
論語の泰伯第八に「民はこれ由(よ)らしむべし。これを知らしむべからず」という孔子の言葉がある。正しい解釈は「べし」を「できる・できない」の可能を意味する助動詞として「人民は政策に従わせることはできるが、一人一人に政策の背景まで理解させることはできない」と読むことである。
ところが「べし」を命令を意味するとして「人民には情報を与えるべきではなく、お上を頼らせておけば良い」と理解している人がいるようだ。その典型が戦前の軍部や官僚で、なおその伝統は今の官僚や政治家にも続いていると思われる。
ところで孔子は別のところ(雍也第六)で「中程度以上の人には政策の背景を理解させることができるが、それ以下の人には理解させることができない」と述べている。だから孔子は国民全体に理解力がないと言っている訳ではない。
孔子が生きた時代は今から二千五百年前の世界。一般大衆のリテラシーは非常に低かったことを踏まえて孔子の言葉を理解するべきだろう。
現在のように一般大衆の知的レベルが向上し、情報伝達手段も発達した社会では「民に知らしむべし」でなくてはいけない。
また別の切り口から見ると、日本の社会ではまだ「結果責任」と「説明責任」の区別が進んでいないということができる。英米では結果責任をresponsibility、説明責任をaccountabilityという明確な区別があるが、日本では少し前まで「責任」というと「結果責任」だけを指していたと思われる。「説明責任」というのは、弁護士や医師の責任が典型的なもので、彼等は善管注意義務を怠らない限り「結果責任」を負うことはないが、顧客に対する重い「説明責任」を負っている。
政治家はどうなのであろうか?
この問題を詳しく研究している訳ではないので、明言は避けるが私は「結果責任」を負う場合と「説明責任」を負う場合双方があるのだろうと考えている。
だが昨今の日本の首相の短命ぶりを見ていると「結果責任」だけが追及されているのではないか?という気がする。「国民に政策の背景や得失を良く理解してもらい」つまり説明責任を果たし、結果責任については国民もまたこれを担うというのが、民主主義の本道ではないだろうか?
都合の良い情報を流し、結果が悪ければ「はい、辞めます」では(最近は中々辞めない人もいるが)、国は良くならないのである。